母、永眠(享年92歳)

11月2日に呼び出しの電話があるも、顔色は良いしそれほど緊急ではないという感じだったので、可能な限り飛行機の予約が取れる4日に施設の方に向かっていた。
飛行機がとれる6日でも大丈夫ではないでしょうか、なんて余裕を感じさせるケアマネさんの話ぶりだったから、5日とかにしようとしてしまいそうだったが、やっぱり4日で良かった。

施設と義実家は近いから、泊まりなどお世話になる。
今回は食事や洗濯、掃除など、お手伝いもできずにすっかりお姑さんにはお世話になってしまった…

4日自体は移動のためにほぼ時間が取られてしまうから、翌5日に、午前中〜正午くらいはいつも入所者さん達のお昼で忙しそうだったから避けるためにこちらもゆっくり支度し、施設に向かっていた。

施設へ移動中の午後2時頃…
ケアマネさんから電話があり、声色は深刻で、「いつ到着されますか」と訊いてくる。
今日は午前中から酸素濃度が低下し、喉がゴボゴボとして言うなら溺れた状態のようになりがちで、吸引をしては少し回復している状態とのこと。

「今向かっています」としか言えず、電車は定刻通りに運行しているだけだから、なるように従うしかない。

現地に着き、15時頃。
「間に合いませんでした。先程亡くなられました。14時36分でした」と言われる。
※時刻に気になる点があったので6日の日記で記載する

「朝まではいつも通りだったんですが、急に悪化して」と。
それと、「普段は目を閉じている事が多かったんですが今日の午前中は目を開けていて」とのことも。

せっかく前日から来ていたのだから、遠慮せずに朝イチで来ていれば良かった。
後悔してもどうにもならないが、

個室に入り、母の側に寄る。
安らかな顔をしていて、首元に手を触れるとまだまだ生きているそのままの人の暖かさ。
臨終に立ち会えなかった…しかも、早く来れたのに、来る努力をしなかった。
人の危篤なんて、何ものをも遠慮なんかしなくて良い所だった。
遠慮もそうだけど、ゆっくりのんびりお昼をとって、15時なんかに来て。
自業自得。
母ごめん。

亡くなった時にぱっかり口が開いてしまっていた。
元々開き気味だったし、午前のドレーンの影響もあるだろうから、そういう状態なんだろうけど。
いくらか残っていた前歯は上も下もほぼ無くなっていた。
歯が弱くなり、どんどん折れていっているのは今年になってから聞いてはいた。

看護士の女性が二人やってきて、開けっ放しの口を閉じてくれた。
虫歯で痛がってる子みたいに、逆ほっかむりみたいな状態にされて、ちょっと可笑しみのあるというか可愛い姿にさせられる。

「遺髪が欲しい」と私が言い、私が用意していたビニールの小袋に、少しカットした髪を入れてもらう。

女性らが出ていった後、ベトナム系…?の男性介護士さんが来て、ほぼ伝わらない日本語でこちらに「ワタシの…友達?キタ?」と言ってきた。
たぶん、口を閉じるような事?何かをするために?、仲間の介護士さんが来ましたか?と言いたいみたいだけど全くわからない。
こちらも曖昧に微笑んでいると、男性介護士さんは母の様子を見て、出ていった。

後で、母のいるフロアのチームスタッフ表を見たが、8人くらいいるチームの内、半数がベトナム姓ぽい方だった。内2名が男性。
いかに、介護職が厳しくなっていってるのかが、コロナ開けで久しぶりに来訪してよくわかる。
長くお世話になり、色々話もした日本人の男性介護士さんは居なくなっていた。
他に出来た棟に移ったそうだが…最後にお礼とご挨拶したかったな。

とりあえず気持ちを切り替えて、夫に電話するが出ないので(後で知ったが、危篤予告をしておいたので支度をしていた)、お姑さん、叔父さん、葬儀社、お寺の順に連絡する。

叔父さん(母の一番下の弟)に連絡時。
この人は認知症が深刻になる前から母が助けを求めた、多い兄弟の中でも一番信頼をおいた人で、
施設入所の際に2番目のキーパーソン(保証人?)になっていただいた人だ。
今回の危篤の事に関しても前々から他兄弟へは連絡を取ってもらったりだとかしていたので、
もしかしたら母の葬儀には、この人ふくめてそこそこの人数が来るかなと思っていた。

それが、「故人が92歳ということは兄弟である私共も高齢であり、それぞれ身体に色々抱えている人もいるので、お葬式の参加は申し訳ないが辞退させていただきたい」と言われた。
「このあいだ久しぶりに兄弟で集まったとか言ってたよね?」だとか、「この叔父はそこまで年齢行ってないよね..」という違和感を感じもしたが、まあ実際高齢は高齢だし、当然表面的に具合が悪いのを見せる人がいないのも理解できるから、すぐに考えは何処かに飛ばし、母が亡くなった時の状況や何かの話を続けた。

叔父は葬儀に出席しない事を申し訳ないとやたら言い続け、途中から電話をもぎとるように奥さんが電話に出てきた。
「お義姉さんは良い人だった、◯◯ちゃん(ブログ主)の事を大事にしていたよ!うん!一人でみんなちゃんとやったんだよね!立派、立派!」と、もう半世紀生きた成人それも血の繋がっていない、滅多に話もしない当方を子ども扱いして、感極まったように語り始めたのでどんどん冷めてきた。

この人は、私がメンタルを病んで遠距離に越した時、まだ寛解していない私を、
「何でご両親の側を離れて暮らし始めたの!ご両親、◯◯ちゃんの助けが欲しかったんだよ!」
と責め立てた人なので正直
「ウチの事情も知らないのに理想論で出しゃばってくるな! 他人のくせに!」とその当時から思ったものである。

当時は奥さんをたしなめた叔父も多少はこちらへの配慮があったと思うが、今回も通話を途中から割り込まれているし、尻に敷かれた弱い人なんだなと呆れ果ててしまった。
こんな状況で憤るのも嫌だし、奥さんの話を適当にウンウンと聞き流しておいた。

なんだかんだ時間がかかっていたのでもう17時程になっていた。
今日は日曜なのでかかりつけ医は休みなので明日死亡診断書を作成してもらいます、と言われた。

葬儀社としても、葬儀社の方に移動・安置するにしても死亡診断書ができない事には施設からご遺体を移動させることはできないと言われたので、何にせよキンキンにエアコンで冷やした部屋に一晩、母は一人。

枕近くのタンスの上に、母のメガネを置き、私が持参した長谷寺の病気平癒お守りを置いた。
これは、大昔にとある人が、遠方に住む息子の眼病の平癒を祈った所、鳥が飛んで来て良くなり云々…という謂れが書いてあったと思うが、「遠方から健康を願う」所がピッタリだと母を想ってコロナ始まりの年に買っておいたもの。
桐の箱に入っていて、刺繍が綺麗なお守りだった。
私は母の血を引いているのだから、趣味も近いに違いない。持っていってもらおうと思って持ってきた。
あと、母が好きそうな紫色系の髪ゴム(髪を留める事はしなかったけど、花が綴じ込んであって綺麗)と、貝細工キーホルダー。

貝細工は、家じまいをした時に兄の机の中から出てきたもので、およそ本とかCDしか持っていなかった兄には異質の物が出てきたと思っていて、でも貝が紫色の糸で巻いてあったから、もしかして母の趣味をわかっていていつかあげるつもりで取っておいたのでは…?と考えて、私と亡兄、母の二人の子どもからの供物のような感覚で置いてみた。
兄の事は嫌いであったがこの時ばかりはせめて、と思ってそうした。

付き添って宿泊しても良いそうだったが、明日からの怒涛のあれこれに気をもみ、身体を休めるために帰宅するとした。

私はやっぱり昔から、親しい者の最期に直面する事を恐れているのだろうか…
臨終に立ち会えるチャンスはあっても努力不足から立ち会えないとか、
たった一晩なのに付き添わず帰宅したこととか、その点に自分で引っ掛かっている。